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点と線、4と2が繰り返し、現れては消える。 紙の上には4次元、5次元をもつ平面がある。 縦、横、幅、時間、記憶?精神?エネルギー?或いは次元そのもの? 絵で例えると点(線)、かたち、タッチ、色、精神(情感)。 ともかく、それを捉える事だ。 かたちの中には偶然と必然の調子を含み、そのタッチはストローク、すなわち上から下、下から上へ、右から左、左から右へ、その動きと時間により形をなす。 13/01/2003 小さなベットで足の親指が触れる、窮屈なのです。 歳とって左手が背中上で右手に届かない、窮屈なのです。 アパートの部屋は窮屈で街の広場も窮屈。 そんな冬の私の情景です。 17/01/2003 scene10メールfrom mie ise city・・・M.maria erizabes 聖コルベ神父様はポーランドのニエポカラヌフから日本の長崎に神の愛を伝えに来られ、現代も日本中にコルベ神父の精神に生きる修道者・信者が沢山います。 実のところ、私もそのコルベ神父の精神に奉献した一人です。 一昨年の秋、長崎のその地を訪れました。 当時、コルベ神父と一緒にポーランドから日本に宣教にきた修道士のうちの 二人がまだご健在(92歳と96歳)なのですが、そのうちの一人の修道士が、私にありし日のコルベ神父の話を沢山してくださり涙を流して私を抱きしめてくださいました。 「またおいで・・・」と言って。 彼らは聖コルベに「私に代わって日本を守るように」と言われ、コルベ神父さんは日本を離れたそうです。そして、その後アウシュビッツで殉教しました。二人の修道士はその約束をひたすら守りながら、今も日本の修道院で祈っておられます。彼らに出会えたこと、このチャンスは天国の聖コルベからの贈り物でした。 20/01/2003 ついに、出来たア。論理と形象が、 1ヶ月さぼって、いたんだけど、1/21は記念すべき日なので早々にお風呂(シャワー室にお湯をためる)と湯上がりのビールだよ。 これから、まとめるのだけど、簡単に言えば、ロスコとリーウーハンのそして、その中(このふたり実際は知らないので)にある自分を論理出来たのである。 作品はこれからだけど、まあ、ゆっくりね。 しかし、人はとらわれる事が多いね。 やはり、コンセプトアートだよ、言葉に出来なければ絵になんか作れないよ。 ・・とりあえず。 だって絵だけで全て語れていたら、それでお仕舞い。続けることは出来ない。 手を付ければ止めての繰り返し、うそばかりだった。 手が進むはずないよ、良い作品じゃないんだから。目先の事ばかりで 言葉にしようもない作品なんだから。 ひとり、孤独で発狂したのではないので、お断りしておきます。 この滞在の報告書(論文)書き始めていて、いろいろ考えていたら、絵が10秒(下絵は結構かいて、張ってある)で出来た。木版(1版、モノクロ)にするのは時間はかかるけど、もちろん。 前記のまねに見えるかも知れないけど、わたしではあると思うよ。 21/01/2003 scene11 朝5時と午後 窓のを開け放つと、今にも離陸飛び立ちそうなロケット、朝のもやの中で頭を光らせている。中では、ミサの準備の司祭アンドロイドと掃除おばさんロボットが動き回っているのだろう。教会の塔はロケットと認識した、満月の日曜日。 午後にドアのたたく音、開けると子供達が3人だけで立っている、アジア人を見てどうしようか迷っている『プシェプレーシャム』と言って謝ると上階に行って、 歌い始めた。小銭を貰って階段を降りて行く。前の路には青年が示唆していた。 『危ないアルバイトだな。』 1日、1時間と時が過ぎてゆく感覚。朝と午後を繰り返している。 この中にあって絵の事を考えたりする幸福は他に類を見ない。 人、創造しない人はまるで、喜びをしらないに等しいとまで思い起こす。 誰もが創造している、そして流れている。 また、異なる時間を持っての幸福もあるだろうが・・・ 働き、休み、寝る、動き、止まる。 列車の時刻を待つ待ち合い室で、、時を待つまでの間通り過ぎる時間。 たばこの煙りに咳き、寝不足の目を赤く見せても『幸せだ』ともかく・・ 05/02/2003 ふたたび雪とその寒さが戻って来た。 06/02/2003 scene12 隣 上階で夫婦けんかの声が聞こえる。 隣の部屋でも、下の家族も、月いち程、やりあっている。 バタンと扉が閉ざされ、音が消失する。 この国の男は皆、やさしく温和にすら、見える。パートナーはその中で権利を 主張し、また反目する。 男は哀れみを受胎するかのような顔になり、外に出ると女性の為に生まれて来たというように、世界を掬う。 私が絵をやってなかったら・・・いわゆる、ひとつの知覚(知識)の共通の意識で関係した世界を持っていなかったら・・・ それは共用、繋がり、連帯という意味になるのかな? 人は周りの知人のなかで自分を存在させる。 ひとつの人間がひとつのエリアを持っている、ひとつの知識が共通項に繋がる。 集団の意識(集団ではなく)が生まれる。 『宗教も同じ事か?』 (現在、これを個人主義の暴力的な錯覚の中で拒否している部分もあるかも知れない。) 『人はこれを見つけだそうと生きている。』 ひとつの知識から連帯。それが複数に変化してゆき、さらにその連帯と繋がる。 『これは戦争にもなるな?』 たとえば2人称の愛、家族というのは同盟だ、連帯ではない。 この考え方ゆえに愛は存在しない。 愛と連帯との争いなのかも、あるいはどちらかが進化なのだ。 それでも、絵をやっていて良かったと思う、幸せだ。ひとりではない。 08/02/2003 学習するということ。学習しない、出来ないのは? もちろん、それは各人で受け止める観点が異なり過ぎる。 環境、世代、時間にも学習を受け止める視点が異なる様に・・・ たとえば、変容して行かない作家がいる。 自分をすべて、掌握しているのか、冷静に自己と対立した結果なのか、作家自身が学習しない作品を見たくもない。 理解したくないのであろうか?体感しようとしないのはなぜなのか? 人によって、なぜ、これほど理解、感性が異なるのだろう。 必要な最小の生の行為、人の形に生かされている術なのに・・・ 14/02/2003 scene13メールfrom field planet・・・アンドロイド・takako 好きだというこの感情は、日常生活に追われる中の、アウフヘーベンか? ここは、ポーランドの思索の時間に入れてくだされ。 なーーーーーんにも、変化無し、 文句もないし、話もないし、全然なんにも、なーーーーーーんにもなし。 私だけが、ときどきちらりと文句いってる。 こんなんでいいの? などと、ね。 そりゃ、私ですけど、よくないのも、ひどいのも、 でもさあ、なんとかあるでしょとも思いますがねー? 穏やかさは真綿で首しめる。 見えない敵と戦うのは、くっくるしーい。 この1週間、閉ざされた冬を味わっている。 東北の雪のように空を覆うぼた雪。同じように音を消失させる。 手前と奥、風の流れと、リズム、寒い窓に拠って眺めていると音のない部屋は音のない時間を通過させる。 雪掻きの仕事の呼び声は豆腐屋のそれと同じだ、4階の雨樋からつららが、雪解け、夕凍みを繰り返し、1メートルにも伸びている。 つららおとしワーカーが命綱を危うい煙突に巻いて地面にとんかちで落とす。 15/02/2003 異国にこっそり、暮している。街の人になって市場を石畳みを歩く。 小さな秘密のように、誰かに見られていたら、微笑して見えるのでは無いかと まわりを気にする。 宗教もこの国の悲しみも賃金も知らずひそやかに、ひっそりとした愉しみ。 興味の外の時間、観察の内なる外側。 18/02/2003 3つのぶれの直線は気持ち良いか? 音の揺らぎは脳に快感を与える、ぶれが不安定な音を併せて揺らぎになる。 文字の表象は絵画か? 筆がもたらす直線は何か? 偶然と必然の顕われ、緊張感。走り止まる、ゆっくり止まり飛び出す。 aからbへ,aからc、横ヘ。 線から平面へ、奥へ手前へ。ひとつとして同じ筈はない。 06/03/2003 夢の中で朝が来た。消え去るイメージに目は開かない。 何時までも耳を閉ざす、無意識が夢に伝わる、私の言葉は少ない。 そして私は風景画家になる。 抽象型を見つけだし、目前の事象をタッチに変え、それは情緒的、感覚的、また自発的だ、始めからそうであった様に。 人の心は変わらない、人は描けない、風景の中に顔は顕われるだろう、風景の中に心は顕われるだろう。 08/03/2003 さて、冬もようやくお仕舞いだ。屋根の上の雪も、道ばたの凍りも昨夜の雨でなくなった。 10/03/2003 scene14 TV イラク、バクダッド侵攻、いつもどおりの時間のニュース、天気予報、明日は8度、ラスベガスにて女子プロボクシング世界タイトル10ラウンド、バドワイザ−の広告のリング。正常なひととき。 イースター復活祭、報告(炎と水のお祭り、イエスのつくりかた) 1、まず、準備した、かごに大事に描かれたたまご、ひよこ、羊、花や葉っぱ枝 を飾り、1週間ほど寝かせます。 2、イースター前日、土曜日教会に丁寧に手に抱えてゆき、ミサで聖水を かけていただきます。(この日は絶食したり、肉を食べなかったりします。) 3、イースター、夜の12時にたまごからキリスト様が生まれでます。 (この時を境に人々は動けなくなるまで食べまくります。ですから日曜日、 イースターは誰も教会に出かけません。) 4、月曜日の午前中、若者は水を人(得に女性)をかけたり、浸けたりして喜び ます。 21/04/2003 朝10時、教会の鐘が鳴り続けている。 何処から?鐘の音は?風の所為でいつも見失う。 時間を告げる音ではない。風に流され、1箇所なのかすら、分からない。 人が死んだのか、ミサが始まるのか。 いや、春の告げる音、国中が春祭りなのだろう。 ハレルヤ、コーラスのハレルヤ。 古い世代は民謡手ぶり、踊り。 新しい世代は飛び跳ねる。 03/05/2003 懺悔は確かに宗教だ。 セラピー、救済、教会に往く事だ。 09/05/2003 何かおかしい。 いらいらする。 自殺は自己の虚無と間だ、これは殺人の処方だ。 怒っている。 外に興味をなくし、苛立ち中で嫌悪を他人に向けている。 これで人を殺せるな、まさかこれまで体感するとは・・・ 春か。 10/05/2003 なにもかも飽きてしまったようだ、欠落。 ぬけた。 走るか? 15/05/2003 友人は、この惑星を秘密主義的と表していたが、私はかなり他人や、人事に興味を示さない、無関心主義に言い変える。随分な個人主義も過ごし易くはある。 個人と個か。 確かめる術もないので、ほっておこう。 17/05/2003 5月末の日曜の午後。 今日も木の綿種が舞っている。 部屋に入り込んでくるので窓も開けられない。 もう4日も続き流されている、その前の2日間は花種が舞っていた。 種吹雪き、春。 全体を見れば何の事はないひとつである。しかし、それの個々は同じ物ではなく、ひとつひとつである。 また落ち着いた日々に戻った。 25/05/2003 敗北だ。 人の所為に出来ない。 むずかしい、異国文化はやはり怖い。分からないのに戦争できるの? あ、怖いから戦争か、なるほど。異文化である事さえ、分からない。 この惑星の祝福された街に・・・取り残されて立っている。 01/06/2003 ハードSF小説好きの70年代ロック少年。 人間性善説の否人間至上主義者。 根っからの無神論者でフェミニストコンプレックスのマニフェスト。 平等偏執狂の個人主義者。 人好きの対人恐怖症。内向的世話好き。 の、外惑星クラクフ、内惑星の滞在期間が終わる。 10/06/2003 夏が来て、夏が終わった。 30/06/2003 我々、人はなぜ、生きてゆくのかという答え。 キーワードは学習、いつか変化してゆかない作家はきらいだ、と書いた。 なぜ、製作するのか、たとえば成功して、欲が実って、(もちろん心の中ではお金 もほしいし)たとえば海外で個展や審査員によばれたりする。 歳とった所為かも知れないけど、興味ないなあ、廻りのえらい人達見ていても。 お金だけは少し必要で、人との繋がりが増えるのはいいよね。 でもそんなことより、自分に納得できる行為(作品)作りたいよね。 (この部分で人と喧嘩、切ってしまうんだよなあ、納得できないから。) それが学習だよね。 学習し続ける為に、先のような欲を持つんだよね。(欲の為ではないよね、そう、多くの人は逆なんだよね。自己欲の為に生きてしまう) し続ける行為が人、学習。INGだね。....ed(過去形)はいらない。 友情や愛情、交流や接触、人の繋がりの煩わしさも学習のひとつになるんだよ。 しかし、この学習というやつ、なかなかくせもの。 かつて、経験主義をしかたなしと考えて、それから体感主義、今は我感主義になっているが、幼い内は体験によってしか、学習が出来ない事、くやしいことである。 04/07/2003 個性と個 個性はそれぞれ皆、持って立っている、でも個ではない、個とは求めてゆく行為の事に等しい。 個など自覚できないのだ。だから、学習という言葉が近い。 今、墨の器というシリーズの1点目(テーマとして続きそう)始めたんだけど。 形もあって、筆のあと滲みみたいな絵なんだけど、いわゆる絵を書こうとする前の間みたいな、あえていえば人間なんだよね。 そう、学習そのもの、人間そのもの、それから言葉(文字なのか、単語なのか、会話なのか、今少し分からない)、はじめに言葉あり、言葉こそ一番初めの学習。みたいな感じ。ははは、やっぱり禅かあ? 11/07/2003 まいるね、今まで本から知識得ないで独学、生きて来たのだけど、これまで考えて来た事、そのまま載っているんだね。 先の学習なんて、座禅そのものじゃないか、そして私の生き方は破戒僧。 考え方はやはり、禅だったね。学習に意味があって、到達しないこそ、生きる意味。悟りなど何度もあり、そして忘れ、それが続くだけ。INGに意味がある。 座禅の魔境、これはおもしろい。自己生理的瞑想かな、脳や体調による思い込みによる悟り、曲解。 12/07/2003 絵画はこれまで、神を、人間の内の神を、自然の中の神を描こうとしてきた。 全て、宗教心理から離れられない。 人の為の人に於ける絵画はないのだろうか。 いや、むしろ絵画の流れは、商業アートに流れ、純粋アートに近いのかも知れない。この戻る行為を、伝統芸術とよび、進む行為を純粋芸術としてみよう。 一見、どちらを選ぼうと良いのだろうが、全て人はその場から少しづつ進んでいるのだ。 宗教の否定は人間で無くなるのかも知れないが、絵画ぐらい離れても良いのではないだろうか。ロスコは芸術絵画を、分解して見せたが、その中には宗教が見え過ぎる。 15/07/2003 旅は終わらないさ。 春雷、夕立ち、すいか、枝豆、ビールの夏がある。 人の四季。 恐ろしいのは春の狂気と老いた時の夏の日ざし、刹那。斜陽か。 朝4時から夜9時まで明るく、7時に輝きを魅せるのは3階に暮している所為。 ポーランドの人が人を騙さないのはなのは四季がある所為。 いつもの煙草屋に品数が少ないのは旅行者が持ち込みが減った所為。 飛行機雲が多いのは空港が近い所為。 夏の日ざしが強いのは冬の長さの所為。 この国で日本を感じるのは中華街が無い所為。 なんのことはない、すてきなことさ。
by water-yo
| 2009-05-25 10:59
| 惑星クラクフ日誌
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